映画「愛を読む人」新聞などでこの映画を知り、ドイツのナチス時代の話ということや主人公のハンナが「秘密を持っていた」ということが気になり、観ようと思った映画。 詳しく映画の内容を調べもせず、単純にナチスと秘密をくっつけて想像していたのは 私の早とちりに近いものであった。 しかし、想像とは若干違っていたが、それ以上に色々なことを考えさせられ、 なんだかせつない映画であった。 15歳の少年マイケルが出会い、初めての関係を持ち愛した年上の女性ハンナ。 彼女は少年に本の朗読を頼み、そのことを通して一層二人の恋は燃え上る。 毎日をまじめに、かつ孤独に暮らしていたハンナにとって、 彼との時間は色々な意味で、どんなにも満たされたものだったろう。 それなのに、職場での昇進と事務仕事への異動を知らされた日、彼女は突然に姿を消してしまう。 事前に、彼女が「文盲」であったということは知っていたので、 (なのに、うかつな私はそれが彼女の「最大の秘密」とまで思っていなかった) 彼女の読書への憧れや、それを易々と読むことのできる少年への尊敬や憧れ、 その彼からの憧れのまなざしを受ける快感、 実像の自分の姿を見られることへの恐怖など、すでに切ない思いでスクリーンを見つめていた。 そして、法科の学生となった彼が法廷で出会った彼女の姿。 なぜ、彼女が他の被告たちの不当な証言を受け入れて罪を背負うことなったのか。 これも、彼女の演技力のせいなのか、私には突き刺さるように理解できるような気がした。 多分天涯孤独であった彼女が、「文盲」という圧倒的に不利な条件を背負いつつ、 人としての誇りというか、プライドにしがみつくようにして、 毅然と自分の人生を生き、そのためには愛する人とも別れることを選んだ彼女なのだから。 それは、強烈なコンプレックスがいかに手を伸ばせば届く幸せの邪魔になるかと同時に、 人にはそれをバネにして生きることも可能だということを考えさせられた。 彼女のために一度は証言をしようかと迷ったマイケルは、結局彼女に会うことも、証言もしなかった。 それは、彼女が守ろうとしていることを尊重したいという、彼女への愛情であったとも思う。 そして、誰よりもマイケルにはそのことを知られたくないという彼女の気持ちを、理解していたのだろう。 時が流れ、結婚し、子どもが生まれ、やがて離婚という経験をしたマイケルは、彼女のために朗読のテープを送り始める。 少年から中年になるまでの年月の中で、マイケルの中で彼女との思い出やその存在は、どのようなものだったのか。 人生の始まりでの人との出会い、特に異性や初めての愛の体験は、その人の一生に少なくはない影響を与え続ける。 彼が、結婚した相手とちゃんと向き合えず、 夫婦としての愛情の歴史を紡ぐことに躓いた要因の一つには、 ハンナとの愛の時間と、彼女に一方的に去られた心の傷があったであろう。 ちゃんとした終止符を自分で打てなかったことは、心の整理もできにくく、 ずっと思いを引きずったままになってしまうことも多いだろう。 彼からの朗読テープを聞き続け、やがて彼女は自分の力で文字を学び始める。 なぜ、それ以前に文字を学べなかったかというのは外野の言い分。 彼女がどのような育ち方をしたのか全く分からないが、 刑務所に入ることになるまでの彼女は、ただ自分の現状のままで生きることに必死だったはずだ。 文字を読めないことの意味だって、それほどはっきりとわからなかっただろうし、 それまでも読むことなしに生きてきた彼女の矜持は、 「読めなくても生きている私」「生き抜ける私」というものだっただろう。 それがどれほど不利でも苦しいことでも、「そのままの私」で人生を戦ってきたのだから。 そんな彼女が、マイケルとつながりたい一心で文字を独学し、 読むことにより自分が正しいと思って行動した別の意味も知ることになり、 やがて深い罪の意識も持つようになる。 そしてまた、彼女が毅然と生きることを支えていた過剰なプライド(それは強いコンプレックスの裏返し)も、 そのコンプレックスがなくなった分だけ弱まり、多分、自然で素直な彼女になっていったのではないか。 それが、刑務所を訪ねたときに担当官が言っていた 「以前の彼女はきちんとしていたのに、今は・・」という言葉が示唆したように、 自分自身にまとっていた身を守る鎧(服装や身だしなみなど)を脱ぎつつある彼女の姿に思えた。 彼女の命をつないでいたのは、多分「マイケルとの再会」だっただろう。 それがかなえられた時に彼女の選ぶ道は、一つしかなかった。 切ないけれど、・・でも彼女は彼女の持てる力一杯生き切ったのだろうと思いたい。 ナチスのことについては、きっとあのような裁判が行われたのだろうと思った。 「では、あなたならどうしましたか?」と問われた裁判官が、 言葉に窮したことが、このような裁判の限界を示している。 しかし、やはり法律でのけじめというものが必要だし、 そのことを通して、戦争犯罪というものを人々は学ばなくてはならない。 今現在も、世界では理不尽な圧制や迫害などがあちこちで起きている。 その渦の中に生きる名もない人々は、その現実の中でなんとか生き抜くことを努力するしかない。 そして、「私ならどうするか」と考え、数ある選択肢の中から自分で道を選ぶには、 やはり情報を得る能力が必要だし、そのためには「識字」が最低限の力のように思う。 蛇足だが、私の母方の祖父は、明治の初めに父親と一緒に少年の頃に渡道した。 学校などはもちろんない土地での開拓者となったわけで、生涯文字はちゃんと読めなかったらしい。 その祖父と結婚した祖母も同様で、二人とも多分頭の良い人だったのだろうと思うが、 「文字が読めなくて情けない。おまえたちは勉強しなさい」というのが 娘たち(母たち)への口癖だったと聞いたことがある。 文字も計算もちゃんと学んだことがない祖父だったが、 町に農作物を売りに行った時には、だまされないようにと自分なりの工夫での暗算や暗記力を駆使したという。 「文盲」とは日本においては過去のことになりつつあるが、 今でも様々な事情で、学ぶ機会を逸している人だっている。 そんなことにも思いを馳せて、様々な点から考えさせられる映画であった。 原作の「朗読者」も、近いうちに読みたいと思う。 2009年07月10日 ジャンル別一覧
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